理系学生日記

おまえはいつまで学生気分なのか

ぼくが出不精になった理由

子供のころというのは、それはもう遊園地なんていうと前日から楽しみでなりませんでした。好きなアニメの映画を見るのはすごく楽しかったし、キャンプファイヤーは心が躍ったし、修学旅行はすごく興奮しました。楽しみというのは常に非日常の中にあり、そしてそれを手に入れるためのコストなんて全然気にならなかった。明日が学校でも、どんなに疲れても、楽しさが全てを忘れさせてくれるかんじです。
では今はどうかと考えると、海外旅行に行こうとは思わず、何らかのイベントに自分から赴こうと思うこともほとんどなくなりました。ダーウィンが来た!のスズメ特集で、ぼくの心は十分に満たされます。Twitter があり、Youtube があり、新書があり、ニコニコ動画がある。勉強すべきことも山ほど出てきている。それらと相対していると、退屈と思うこともありません。今日は天気が良い、今日の風は温かい、今日のニコ動のランキングは面白い、近くのコンビニの店長さんがムダにコロッケを薦めてくる、そんな日常のちょっとした機微さえ感じていれば、特に欲もでてこない。

もう 20 よりも 30 の方が近い歳になってきたせいか、非日常の費用対効果というのをスゴく考えてしまいます。非日常を手に入れるというのは、当然ながらコストがかかる。経済的な費用とともに、非日常を経験するための時間的コストもバカにならない。そうすると、その「非日常」から得られるリターンが、これらの消費コストを正当化できるのかを考えてしまいます。あるいは、非日常から得られるリターンは、日常から得られるリターンを上回っているのだろうかと考えてしまいます。

時が進むに連れ、日常から得られるリターンの絶対値はスゴく上がりました。自分が欲しかったニッチな情報は、深いところまで含めて Web から得られるようになりましたし、出かけないと見れなかったエンターテイメントは自宅に居ながらほぼゼロ時間でアクセスできるようになりました。こうなると、合理的に考えれば、それなりの魅力がない限り、非日常は選択されないようになります。非日常を選択させようとする側は、その「非日常」の魅力を上げるべく努力しないといけませんが、このような試みの多くは、経済的コストに跳ね返ります。

「便利になる」とは、かつて非日常でしか手に入らなかった事が、日常のレベルまで落ちてくることを意味しています。そして世の中はどんどん便利になってきた。非日常の中にあったものの多くが日常で手に入るようになった。「日常」の持つ水準はみるみる上がっていく一方で、非日常のレベルは上がったのかな。