やっぱし入力が多いのは得です。トニー・ブサンが言うように人間は連想する生きものですし、連想は一つ一つの点を繋いでいくようなおのですから、その点を増やすという意味で入力を多くすることに越したことはありません。そういう意味で、ぼくはとにかく速読に憧れていたんですが、速読を調べていくとちょっとした違和感を感じてしまいました。
速読に向いた本って何なのか
本を読むのってそれなりに目的があるんじゃないかと思います。
ぼくは小説を読むときってほぼ間違いなく現実逃避したいときで、現実を忘れてでき得る限り感情移入したいと思いますし、作者の人がリードしてくれるのに従って物語を読み進めたいと思っています。風景描写があるなら、その光景を心に映して読みたいし、行間があるならできるだけその行間を読み取りたい。
ただ、それを速読でできるかというと(ぼくの理解では)たぶん NO だと思うんです。速読は詳細な読み込み、完全理解を犠牲にして速さを取る。速読をしなかったからといって完全理解ができるということはあり得ませんが、元から詳細を削って全体を読みにいこうとするのは、ぼくが小説に求めるものと反してるような気がします。
技術書についても、子細は省くというのはもちろんやりますが、全体感のみを把握して詳細を切るのであれば、技術書を買う必要はきっとないと思います。
ここで wikipedia
速読が分からなくなってきたので、wikipedia を引いてみました。ここでぼくが速読って言ってるのは、wikipedia でいう「全体理解」の方なんですね。
ここでは便宜上、速読を「全体理解」と「精読」に分類する。
「全体理解」とは、全体を大雑把に理解する読み方であり、あらすじやテーマをとらえて約70%の理解度で読み進める。「精読」とは正確に理解して記憶に残るような読み方で、情報を分析しインプットするための読みである。樹木に喩えると、「全体理解」で幹や大枝を捉え、全体のイメージを掴み、「精読」では葉っぱや花など細かな部分にまで注意を向ける。専門書や試験問題を読んで学習するためには、この「精読」の読み方が中心となる。
速読術 - Wikipedia
でさらに読んでみると、このあたり。wikipedia が全て正しいとは思わないけど、新しく知識を得るためには時間がかかるというのは納得できるところ。
読解のためには、文書に対応した知識が頭の中にインプットされていなければできない。読書する際、無意識のうちにインプットしてある知識の中から、内容に応じて適したものをアウトプットしている。
このプロセスの速度を上げることが出来れば、実用的な速読を習得できる。