ぼくの人生におけるバーベキュー歴を思い返すと、阪大の情報科学研究科 2 棟目が建設される前にまでさかのぼる。 当時はまだ草がぼうぼうで工事すら始まっていない野原のようなところで、ぼくたちは火が点かねー、火が点かねーと嘆きながら、日の沈んだ暗闇のなかでバーベキューをした。 もはやあれから 4 年くらいが経過しようとしていて、ぼくも年ととったなと思いはするものの、本質的にはなにもかわっていない。自分だけ時が止まったようだ。周囲だけが変わって、自分だけが取り残されているような、そんな気がする。
今日は新木場公園でバーベキューをしてきた。 ぼくは親が頭を抱えるくらいの出不精なので、浦安に住んでこのかた、新木場というところに行ったことがなかった。だから、今日も iPhone を片手に一駅ずつ自分の経由すべき駅を確認しながら、新木場に到着した。 新木場はきれいだ。浦安に住んでいてこんな感想を抱くのもおかしな話だが、海が近く、5 月という時期と相まって、風が澄んでいる。特に新木場公園あたりになると、釣りをする家族連れだったり、フリスビーをする大学生だったり、のどかさの中に活気が満ち満ちている。長らく感じてなかった生が、自分の体に注ぎこまれたかのような錯覚を覚える。
バーベキュー参加者の半分は知らない人だった。当初は知らない人同士ならではのギクシャク感があるものの、そういうのは時間と、肉と、アルコールが溶かしてくれる。ぼくは、弱いながらもアルコールを摂取し、テンションをあげて、早めに雰囲気に慣れることに努めた。 ぼくのアルコール摂取量の限界というのは、基本的には缶 2 本というのが、これまでの人生において見定めた自分の閾値となっている。今日は、調子に乗って 3 本飲んだ。当然のようにハデな頭痛が襲ってくる。燦々と照る太陽の下で、ぼくは頭痛にもだえつつ、バーベキューを楽しむ。頭は痛いが肉はおいしい。大よそ 5 時間程度でバーベキューの会は終了し、ぼくたちは新木場を離れた。
そして今、なぜかぼくの部屋に、ニラともやしのセットが大量に備蓄されているという不可思議な状況に陥っている。もやしとかは根性がなくてすぐに痛むから、備蓄には向いていない。こんなに大量のもやしをどうしようと思い、twitter 上で同期に「もやしセットあげる」といったら、やんわりと断られた。不意に、もやしが不憫に思えた。ぼくには邪魔者あつかいされ、同期には存在を否定されたこのもやしが、いったいぼくたちになにをしただろうか。
そういう思いが言語化され、下記のようなつぶやきとなった次第です。みなさんもやしを食べましょう。 -Yuichi Kiri on Twitter: "人類はもっと真剣にもやしセットと向き合った方がいいぞ" -Yuichi Kiri on Twitter: "人類の歴史は、もやしに対する蹂躙の歴史であって、おれはもやしに素直にあやまりたい。" -Yuichi Kiri on Twitter: "最近の野菜の高騰は、人類に対するもやしの反乱。" -Yuichi Kiri on Twitter: "人類がこのままもやしをナメつづけてると、もやしが爆発して地球滅亡しかねない。" -Yuichi Kiri on Twitter: "今もやしに心から謝罪したら、もやし界の王子になれる可能性あるよな。" -Yuichi Kiri on Twitter: "だめだ、もやしに心の平静を掻き乱されてる" -Yuichi Kiri on Twitter: "おいもやしハンパないし、もやしナメきってた奴らはいますぐ謝ったほうがいいぞ。http://bit.ly/alXwDi" -Yuichi Kiri on Twitter: "もやしのあまりの恐しさに顔面が真っ青になって、布団のなかでブルブル震えてる。"