オフラインよりも先にオンラインで知り合ったという、えーりんさんにご招待を受け、結婚式二次会に参加して来た。この blog がなければ、きっとえーりんさんと知り合うこともなかったし、こうやって二次会に行くこともなかったわけで、ぼくたちはそういう時代に生きてるんだなということを思うと、少し不思議なかんじがする。リアルとネットの垣根が云々というよりは、ネットがリアルに同化してる。 10 年前は、女子高生が携帯だけで知り合った人を友達と呼ぶのを馬鹿にする風潮があったのだけれど、今や twitter、facebook のみで繋がる人間関係も立派に「関係」であるというコンセンサスがだんだんと出来つつあるようにも思う。とはいえ、(感覚値だけど)未だ多数派には至っていないし、ここらへんの感覚を共有できない人は確実にいるので、その善し悪しはともかくとしてこの手の議論は数十年は終わらないんだろう。
二次会自体はたいへんに感動を呼ぶ良い会になっていて、新郎新婦の人柄の良さがよくあらわれた、あたたかな場所になっていた。みんなは新郎新婦のことが大好きで、新郎新婦はみんなのことが大好きで、もちろん新郎は新婦が、新婦は新郎が大好きで。こういうあたたかさが満ちている空間というのは、そこにいるだけで心が洗われる。来て良かったなというのを素直に思った。
そういえば、えーりんさんが、二次会の締めに、幸せというのは常にそこにあると見えなくなるもの、だと言っていた。 最近ちょうど、人間の適応力が、「幸せ」だとか「豊かさ」だとか、そういうものにも働いてしまうのは人間の不幸だなということを考えていた。もちろん、苦痛とか、ストレスとか、そういうものに適応力が働いてしまうのも場合によっては不幸なのだけど。 目が慣れてくるというのかな。努力して手に入れたはずの幸せが、日常に溶けてしまって、目に映らなくなる。感じていたはずの幸せを感じなくなって、別の幸せを求めるようになる。
適応というのは忘却と同じで、生存や防衛を目的とした人間の本能的な行動だと思うのだけれど、その本能を理性で抑えて、適応が進むのを止める必要があるのかな、というようなことを思った。その一方で、足を止めて現状に満足することに、罪悪感を感じるというのもあるわけで。果てしなく重なっていく欲求を抑えて身近なことに幸せを感じ続けるのと、新しい幸せを次々に追い続けるのと。別に二者択一の選択でもないので、両方できるっていう人も多くいるんだろう。両方選べずに悶々とする人もいるんだろう。 ぼくはたぶん悶々組なので、はやめにそういうところから抜け出したいもんだな。