理系学生日記

おまえはいつまで学生気分なのか

もっとエントリを書こう。

いつもいつも エントリを上げようと思うんだけれど、様々な理由によって、様々な理由をつけて、エントリを休みがちになってしまう。仕事ばかりで書くことがないという諦めが、キーボードとの距離を明らかに広げている。

情報科学という学科に、情報科学という研究科に籍を置いていたこともあってか、同期の半分くらいは Blog を持っていたんじゃないかと思う。ぼくは、近しい人の考え方や、行動パターンを知るのが好きだかったから、こぞってそういう Blog を読んでいた。今でもそういうBlog の RSS は Livedoor Reader に登録されているままだけれど、いったいどれだけの RSS が今もまだ同期すべきエントリを配信しているのか分からない。分からないけれど、減ったことは確かだ。半減どころじゃない、十分の一でも足りるかどうか分からないほどに激減してしまった。
彼らは、彼女たちは、承認欲求を満たす別の手段を手に入れたのかもしれない。あるいは、Blog そのものが、承認欲求を満たす手段でなかったのかもしれない。もしかすると、業務が忙しくて、エントリをアップロードする暇がないのかもしれない。どんな理由にせよ、いつの間にか更新が止まった Blog は、当時の事柄だけを伝える秒針の止まった時計と化してしまった。

ぼくが Blog を始めたのは大学生の頃だったけれど、その頃は既にブログブームなるものが生まれていた。メールも電話もあったけれど、Twitter も Mixi ボイスも Facebook もない当時、双方向コミュニケーションを強要しない情報発信手段というのはなかなかなかった。ぼくにとって、双方向でのコミュニケーションを強要しないことが重要だった。有り余る承認欲求をぶつける先が人であれば、反感を買うこともあるだろうし、迷惑がられることもあったに違いない。Blog という一方向で成立するコミュニケーション層を一つ挟むことで得られる、「嫌だったら見なければいいじゃん」という免罪符こそが、重要だった。
このエントリのような口調を、近所のカフェで話したとすると、きっとそっぽを向かれるはずだ。口調を直してこのエントリの内容を話したとしても、相手が暗い感情を抱くことは避けようがないだろう。でも、Blog では書ける。言いたいことが言える。人の反応に臆することなく、話したいことを話せる。ぼくにとって、Blog とはそういう緩衝材なはずではなかったのか。

Blog がどういうメディアであるのかを忘れていた。書くことがないと言う友人に、"日常の中で思うことが一つでもあるんだったら、書くことがないということは無いはずだろ"と反論したことを忘れていた。
もっとエントリを書こう。日々が楽しければ、陽気なエントリを書こう。クソのような日常からは、暗澹たる文章を作ろう。泣きたいときは泣き言を並べよう。疲れたときは、疲れたと書こう。きっと、ぼくの承認欲求なんて、それだけで満たされるんだ。