b 今日は大学同期と飲んできました。そこでちょっと話に挙がったのが、仕事に取り組む心理についてです。下記エントリは直接ぼくに向けられたものではないかもしれませんが、このエントリに対する返信と考えてもらっても良い。 -2012-07-22
**仕事に駆り立てられる理由
最近のぼくは、「社畜」という言葉を自分に投影せずにはいられない程に、余暇すらも仕事に費す生活が続いていて、それは決して健全とは言えません。 しかし、それが
2番目くらいには楽しいから、ついつい残業しちゃう。そんなに嫌いじゃないから週末もちょっとやっちゃう。自分の時間を削って「やっときますね」とか言って仕事やっちゃう。だって結構楽しいし、そんなに苦じゃないし。まぁそれで職場でも認められて、出世したらちょっとは給料上がるかなーなんて。 << という話かというと、たぶん、そうではないのです。
厳密に言えば、仕事から得られる承認欲求を完全否定できるわけではない。しかしだからといって、承認欲求も、得られる金銭も、多大な時間を犠牲にしてまで得たいとは思わないのですよ。
**社畜の心理
社畜が嫌々ながら、時間という犠牲を払って仕事に向かうときの心理、それは「自分がこれをしなかったらどうなるか」という予想であり懸念だと思います。
人生の 1/3 を費す仕事というものは、ときに仕事に関わる人々との強い結び付きを作り出します。それは場合によっては、家族と同等の絆と言っても良い。大仰ながらもそれを家族と呼んだとしましょう。 ぼくがこの仕事を片付けなかったら、その家族にどれだけの迷惑が及ぶのか、どれだけの皺寄せが及ぶのか。社畜は、その恐怖に負けてしまうのです。
自分の時間を使って、自分が好きなことをしたり、家族や友達と過ごしたり、おいしいもの食べたり、色んなとこ行ったり、何か見て泣いたり笑ったり、人生について考えたり。それが1番楽しいこと、大事なことじゃなかったんだっけ? << ここに記述されているところはその通りだと思います。 一方で、自分が「この仕事をしない」という選択をすることで、「家族や友達と過ごしたり、おいしいもの食べたり、色んなとこ行ったり、何か見て泣いたり笑ったり、人生について考えたり」する機会を"家族"から奪ってしまうのではないか。自己犠牲を払うことによって、それが避けられるのであれば、少なくとも被害を抑えらえるのであれば、その犠牲を払ってしまおうという思考パターン、それこそが社畜を生むのではないか。ぼくはそんな風に考えています。
これは責任感という美しい言葉で置き換えられるべきものではありません。 見方によっては、単に嫌われたくないだけという、くすんだ自己愛でもあったりします。 本来は、会社の体制であり、マネジメントであり、より大局的な視点を切り口に問題解決に当たるべきだと誰もが思っても、そんな時間が残されていない。 だからこそ、悲劇のヒロインを気取り、誰も喜ばない自己満足を抱えて、誰も幸せにしないと分かっていながら自己犠牲を払うのが、社畜の姿なんだと思います。
「社畜を生む心理」と誇大広告を打っておいて恐縮ですが、これはぼく自身の心理なので、他の人には当てはまらないのかもしれませんし一般化はできないかもしれません。人はそれぞれ、異なるバックグラウンドを持ち、異なる考えを持っています。でも、だいたいは同じような思考過程とジレンマを抱えているんじゃないでしょうか。
ところで、最近は酔ってるときにしか enlightenment タグのエントリを書けなくなっているんですが、やっぱり変に年を取ったせいなんでしょうかね。